「編集者にどんなに直されても、結局最後に残るものが作家の個性。」編集長の部屋(9)前編:ヒバナ 湯浅生史編集リーダー

編集長の部屋
2015.04.26

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「編集長の部屋」コーナー9人目は、多くの名作、話題作を残しながらも、2014年惜しまれて休刊したIKKIの後継誌、ヒバナ編集部を率いる編集リーダーの湯浅さんからお話をうかがいます。

 

世の中の才能のある若い人たちがみんな今漫画家になろうとしているんじゃないかなっていう匂いがありました。   

――これまでの編集者としての歩みをお聞かせください。

僕は小学館の前に別の出版社にいたんです。新卒で就職した広告代理店に一年だけ勤めた後に最初の出版社に入ったんですね。そこがのちに宝島社になるJICC出版局だったんですよ。僕は『宝島』っていう雑誌の編集部に入って5年ほど働きました。

ご存じかどうかわかりませんけども、80年代でいうところのサブカル雑誌で、若者の文化総合誌みたいな雰囲気のやつでした。その『宝島』で雑誌の編集を覚えたんですね。もともと高校・大学生の時に『宝島』の熱烈な読者で、あこがれていたところになんとかもぐりこんだ形です。

 

――JICC出版局ではマンガ編集はされていたのですか。

その時はマンガのマの字もなかったというか、今のようにマンガを作る編集はしていませんでした。当時、『宝島』にはマンガはほぼなかったんです。でも、実は山田玲司さんやミュージシャンの泉谷しげるさんが連載している時期がありました。

泉谷しげるさんの音楽がもともと大好きで、『宝島』に入ったらCDが出るたびにインタビューさせてもらってたんです。で、泉谷さんがなぜか『宝島』でマンガを連載することになったので、自分がそのマンガの担当ということになりまして、原稿をもらいに行って入稿したりしていました。『ヒューマ』っていうタイトルで、『マッドマックス2』みたいなぐじゃぐじゃの世界で敵味方も判然としない血みどろバトルみたいな(笑)。ロック繋がりで、『モーニング』でデビューしていた若林健次さんや忌野清志郎さんも参加していました。

 

――楽しそうですね!

もうちょっとだけ『宝島』でのマンガの話をすると、同じ編集部にすごくマンガ好きでマンガに詳しい増渕俊之さんという方がいて、彼は岡崎京子さんの仕事とかを初期のころからやっていて、実際に自分でマンガ雑誌を作ったりもしていたんですよ。そのころちょうど僕は、『ヤングサンデー』で連載していた井上三太さんの『ぶんぷくちゃがま大魔王』っていうマンガの、殺伐としたデスな感じにしびれてたりしたんです。

そしたら増渕さんは井上さんとも仲良しで、井上さんが今度うちの宝島編集部から『TOKYO TRIBE』っていう描き下ろしのマンガ本を出すんだと教えてくれました。それが羨ましくて、手伝わせてもらうことになり、『宝島』本誌に短期で載せる数ページのPR版『TOKYO TRIBE』を担当させてもらったりしました。

その後も、井上三太さんが「ぼくの仲良しの作家さんです」って山田芳裕さんを紹介してくれて、そのおふたりの対談記事を作ったり、なにかと理由を作ってマンガに関わろうとしていました。

 

――すごくおもしろいですね(笑)『宝島』では他にどんな仕事をなさっていたんですか。

特集企画を持ち回りでやっていました。「大学ロック偏差値」というそうとうアレな特集とか(笑)あと「人生を変える一冊」って読書特集やるのはいいんですけど、編集長が「人生変える一冊はやっぱり『成り上がり』だろう!」って、『成り上がり』と『ライ麦畑でつかまえて』が同列に並んで入ってきたりするんです。

そういう感じが当時の『宝島』という雑誌でした。あと僕が自分で考えた企画で、エロ雑誌のライターさんと組んで「オナニーをすると頭が良くなる!」とかですね、絶対に頭が悪くなるはずがない!みたいなことを5ページくらいでやらせてもらったりとか(笑)。「想像力とかをかき立てやるわけだから頭が良くなるにきまってるんだ!」みたいなことを言いきってみるとかですね(笑)。サブカルを飛び越えて、相当無茶な特集記事を作っていました。

 

――JICC出版局にはどれくらいの期間いたんですか。

89年の4月から94年の3月いっぱいくらいまでいました。その後94年の5月から小学館に勤めだしました。今でも若いころからの精神的支柱だったと勝手に思っている、憧れの『宝島』を、色々考えて辞めちゃったわけですね。小学館の求人は、新聞の日曜日版の求人広告で見つけて、経験者中途採用試験を受けました。

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当時の若者に熱烈な人気があった『宝島』

 

――ちょうどマンガ産業が成長しているときですね。

そうです。93年とか94年くらいは、土田世紀さんや松本大洋さんの作品などを見ていると、世の中の才能のある若い人たちはみんな今漫画家になろうとしているんじゃないかなっていう匂いがありました。そういう雰囲気を横からから見て感じていて、羨ましいなと思って、僕はその時30歳になろうとしてたんですけど、小学館入社の時にはマンガの編集部を希望しました。

最初はコミック誌編集部に配属されず、5年間くらい学年誌の『小学五年生』『小学六年生』の編集部にいました。マンガ編集部に行くことをほとんどあきらめていたところ、99年になって『ビッグコミックスピリッツ』へ異動するように言われました。その時すでに35歳で。完全にゼロから教わるには遅すぎる感じでしたけど、チャレンジさせてもらって、その後『flowers』や、ライトノベルの『ガガガ文庫』を経て2010年にIKKIに移りました。

 

編集者にどんなに直されも、結局最後に残るものが作家の個性

――IKKIの創刊には関わっていたのですか。

2000年末の『IKKI』発刊後、『スピリッツ』の増刊時代は参加していました。立ち上げの最初に関わっていて、2003年に月刊化して編集部が独立するときに江上さんと平井さんという二人以外の社員はみんな離れたんです。フリーの編集者さんたちに自分の作品を全部託したという形でした。

 

――それでは立ち上げのころの縁があって最終的に『IKKI』に行くことになったんですね

『スピリッツ』にいたときに一番勉強させてもらった作家さんが佐々木倫子さんだったんすけど、そのとき副編集長だった江上さんが僕を、佐々木さんの担当につけてくれたんですよ。その時まだ編集部に入って1年くらいで右も左もわからない状態だったのですが、いろいろ取材したり打ち合わせに行ったりとかで勉強させてもらいました。

 

――『動物のお医者さん』の時期ですか。

フランス料理屋さんを舞台にした『Heaven?』というマンガの時期でした。当時は、江上さんが兄貴というか身近な感じがあって、江上さんによく編集について教わっていました。

その後、江上さんは『スピリッツ』を離れて『IKKI』に行き、自分は『スピリッツ』にちょっと残ったあとに『flowers』に行きました。でも異動してまだ半年しか経っていない頃に、江上さんにライトノベルの『ガガガ文庫』というレーベルを創設する指示が下り、「ラノベやるんだけど一緒にやんない?」と誘われて、江上さんと僕でラノベレーベルを立ち上げることになりました。

江上さんはやっぱり『IKKI』本体の仕事が大変なので、結局立ち上げの途中で手を離すことになって、後は僕と、集まってくれたフリーのスタッフたちでやりました。そしてその後また結局『IKKI』でも一緒になり……なんとなく、腐れ縁の感じですね(笑)。

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――2010年に『IKKI』に移られ、江上さんが辞められることになって、湯浅さんがヒバナの編集長になったという経緯なのですね。

そうですね、正しくは、もともと『IKKI』が休刊になる1年くらい前に、僕は編集長代理になっていたんですね。編集長代理とは、「そのうち編集長になる見込みだから見習いとして勉強せよ」という位置づけの期間なので、僕の能力に特に問題がないと判断されれば『IKKI』の編集長になる予定だったのですね。でもその途中で『IKKI』の休刊が決まり、今に至っています。

 

――それで後継誌の『ヒバナ』の編集長になられたのですね。

ただ、今も実は編集長じゃないのですよ。

 

――えっそうなのですか!?

『ヒバナ』は『ビッグコミックスピリッツ』の増刊誌なんですね。『IKKI』も最初は『スピリッツ』の増刊誌だったので、そういう意味では『IKKI』の最初と同じなんです。ですので『ヒバナ』と『スピリッツ』はひとつの編集部から出ていて、自分は編集長代理のままです。勿論、『ヒバナ』の責任者は自分ですが。

 

――そうすると『ヒバナ』の編集長の湯浅さんっていう紹介はいかがしましょう。

だから今ずっと考えているんですよ(笑)、リーダー、キャップ、チーフ、なんだろう?とスタッフたちと考えています。編集長だと『スピリッツ』編集長の村山くんとかぶっちゃうので……それでは【編集リーダー】にしましょうか。今決めました(笑)。

 

――じゃあ編集リーダーという方向で(笑)

つづけて湯浅さんにとって印象に残った作家や、編集者についてお聞かせ下さい。

すぐに思いつくのは佐々木倫子さんです。ただ佐々木倫子さんを担当していた時、こっちはぺーぺーの中のぺーぺーだったので、完全に「お世話になった」という感覚ですね。でも、佐々木さんとお仕事をさせていただいた経験で、マンガを作るのは楽しいんだと思うようになりました。

 

――具体的にどういうことがあったのですか。

佐々木倫子さんは、本当にワンアンドオンリーというか、だれも後継者になれない、佐々木さんが描いたら全部佐々木さんのマンガって感じの個性的な作風ですよね。でも、打ち合わせではすごく編集者の意見を聞いてきて、いいと思ったらすぐ取り入れようとするんですよ。

全てが、佐々木さんの脳みその中から出てくるんじゃないかなっていうくらいの強烈な個性を持っている方なので、打ち合せをがっちりやるという方法にとてもびっくりしました。

 

――つまり、普通の意見なのに作品に入れてくれるんだけれども、出てくるときは佐々木さんオリジナルになってるってことですか。

世界観や雰囲気が佐々木さん独特な感じのものなので、ひとつひとつの台詞とか、キャラの動きとかを全部100パーセント自分の頭の中で組み立てているんじゃないかなっていう気がしていたんですね。

でも実際には「たくさん打ち合わせしてくださいね」ということをおっしゃってくれて、打ち合わせに行くとほとんど何の経験もない僕のアイデアを採用してくださることがあるんですよ。僕のアイデアを採用されてしまっても、自分は不安なんですけどね。でもそれがマンガの画にはまって仕上がってくると、自分が出した台詞がそのまま書いてあるのに、まったく自分が思いついた台詞の気がしないんです。

それが楽しくて感動しました。自分を守ろうとしなくても、何をやってもその人になっちゃうんだっていう感じのものすごさを感じて、かっこいいと思いました。毎回、最後に仕上がってくる原稿を見て、そこでびっくりするのが楽しくて、いいなぁやめられないなぁって思っていました。

 

――すごく面白いですね。佐々木先生とのエピソードを噛み砕いて他の作家さんに伝えようとすると、どのようなメッセージになりますか。

難しいですけど、自分の解釈では、「編集者にどんなに直されも、結局最後に残るものが作家の個性なんじゃないの?」っていう感じでしょうか。

若い人や新人さんは特に、本当に自分を必死になって守ろうとするんですよね。自分の考えたディテールがちょっとでも崩れるとそれはもう自分じゃなくなっちゃうかもしれない、と不安なんだと思うんですよ。それが若さの良さでもあるんですけれど。でも、さんざん直されて、自分でもよくわからないものが残ったとしても、「その残ったものこそがきみ自身なんじゃないの?」っていう感じがすごくありますよね。

同じ新人でも、自分をすごく守って、少しでも直されることを恐怖する人と、編集者の意見をすっととりいれちゃう人がいます。まだ自分が何者にもなっていないという恐怖もあるかも知れませんし、本当のテンプレに嵌めて来ようとする編集者もいるかもしれませんけど、やはり、後者のほうが、柔軟なほうが良いと自分では思っています。

 

――同じ質問を佐々木先生にしたらどういう回答がもらえるか、すごく興味がありますけど。

湯浅さん全然違いますと言われるかもしれないです。怖いので想像しません(笑)。

 

作家が自分個人のことを狭く深く考えた先に、普遍的なものがあるのかもしれないのだけれど、それをどう読者と繋げて、売れるようにしていくかというところが編集者の仕事なのでしょうね。

――湯浅さんは編集者の仕事とはなんであると思いますか。

自分たちで名前を付けた雑誌を預かる身になってから、自分自身の考えが変わってきている部分もあるのですが、とりあえず一対一で作家と向き合って作品を作るという場面で考えてみるとですね……。

作家と付き合うということは、例えば作家が粘土をぺたぺたやりながら像(作品)を作っているとする、作家は土台から骨組み、肉付けした状態まで全部自分で作らないといけないじゃないですか。自分はそれを横で見ていて、これは中身にどういう骨格があるつもりなのか、それを一生懸命理解しようとしているんだという気がします。作家が像を作っていくうちに混乱して何を作ろうとしてるのか分からなくなったときに、そこの骨はこういう風になってるんじゃないかって作家に言ってあげたりするんですよ。それが編集者の役割だと思ってきました。

 

――作家さん自身が見失っている、本来作りたかったものを教えるということでしょうか。

作家は、まず全てを作品につっこむしかないと思うんですね。本質もディテールも同列に。で、そこで編集者が出てきて、より本質がくっきり浮かび上がるように整理するのを手伝う。狭く深く作家個人のことを考えた先に、普遍的なものがあるのかもしれないのだけど、それをどう読者と繋げて、売れるようにしていくかというところが編集者の仕事なのでしょうね。

 

――とても興味深いです。佐々木先生以降どのような作家さんを担当してきましたか。

『flowers』には一年間くらいしかいなかったんですけども、その時は田村由美さんとかさいとうちほさんを担当させて頂きました。それから『IKKI』では最初から副編集長的な役割だったのでなべくなるべく担当を持たないようにしていたんですけど、新人の漆原ミチさんの『よるくも』という作品を最初に近い辺りから最後ところまで一緒に作ったなぁっていう感じがします。

『よるくも』は前任の平井さんから引き継いだマンガなので、このマンガが何のマンガなんだろうって、自分はどういう風にこのマンガを生理的に理解できるのかしらっていう風に、ずっと考えながらやっていました。何回も打ち合わせを漆原さんとする中で、「要するにこういうことなんだ!」ってある種自分の捉え方がわかったりするんですよね。作品のテーマみたいなものがある段階ではっきりと見えたんですね。それが多分「骨格」が見えたなって思った時ですね。

 

――それはつまり漆原さん自身が言語化してなかったものを代わりに言語化したようなシーンだったんですか。

シーンというかマンガ全体のことだったんですけど、そのように思っています。ある男と女の子の愛の話なんですけどなかなか二人のコミュニカーションが上手くいかない。上手くいかないというのは、お互いに欠落を持っていてコミュニケーションが普通にできない者同士なんですけど、男が女の子を欲する欲し方と、女の子が男を欲する欲し方がずれている。ずれていてお互いにお互いを正面からはちゃんとは理解できないかもしれないんだけど、互いに相手の身体の違う部分をひっ捕まえ合っているんだというイメージの話なんだ、と気づいたんですね。

そういうものとして最後まできっちり描き切ろうという感じで、「ディスコミュニケーションのコミュニケーション」みたいなことだと思って、何とか最後までやったかなと。それに気づいた時に作家さんに話をしたら、賛成してもらえて。その後は、そこを描くために最後までがんばりました。

 

――面白いですね。編集者は、この作品は何なのかと作家に問うのではなく、一緒に考えてマンガを作っていくということですね。

そうですね。作家さんと作品について意見を交わしていると、だんだんだんだん認識ができてくるんですよね。そうすると、片方が間違えた時は片方が「あ、違ってますよ。こうだったでしょ」と言えるようになるのです。そのやりかたで最後までいけるようになります。共通の認識、言葉をなんとか見つけ出すことが編集者の一番の仕事かもしれません。

 

――ありがとうございます。新人作家の持ち込みの際に、作品に対してある程度言語化されてるべきなのでしょうけども、より深い言語化を、編集者が一緒に行っていくという側面もあるのかも知れませんね。

「この作品はなんなの?」と編集者が作家に質問するのは、作家に言葉で考える努力をさせるっていう意味があると思うんですよね。そこは結構、編集者のタイプにもよるんでしょうけども、自分は最初から、「どれどれ、あなたの中身全部見せてみて」みたいな感じで、最初から一緒に考えようよってなるタイプですね。

 

<前編ここまで>

中編: 何回でも味わいたい感覚が残るマンガがいいような気がしてるんです。

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